2016年

1月

27日

おかえりゼロ戦

 太平洋戦争後にパプアニューギニアで回収され、米国で復元された零式艦上戦闘機(零戦)が27日、海上自衛隊鹿屋航空基地(鹿児島県鹿屋市)で行われたテスト飛行で72年ぶりに日本の空を飛んだ。

**以上引用**

 

かっこいい。ただただかっこいいです。零式艦上戦闘機、略してゼロ戦です。日本の戦闘機と言えばゼロ戦な訳で、飛行機マニアでもない自分ですが、やはりこの飛行機は感情が入ります。

 

実は現在の日本には国産戦闘機が有りません。大東亜戦争時にゼロ戦によって計算外の被害を被ったアメリカが、日本に戦闘機を作らせてはならない。空を自由に使わせてはならないと、敗戦後日本に戦闘機を作らせず、自由に空を飛ばせて貰えないまま70年が経ちました。

現在、日本の旅客機が日本の空を飛ぶにもアメリカの許可が必要というおかしな事態が起きています。これを我々(誰?)は「ゼロ戦アレルギー」と呼んでいます。

 

零戦は正に日本(三菱重工)の技術力が生み出した産物です。

ABCD包囲網によって資源が無くなっていた日本は、これまでの戦闘機とは比較にならない軽量化、飛行距離を実現しました。

アメリカ軍が想定していた「ここまでは来れない」距離まで飛んで行き、帰る事が出来る飛行機で、アメリカ軍が回収して技術が盗まれるまで空の戦いは零戦の独断場でした。

 

特攻の故郷と言われる知覧平和公園に堀○と出掛けた時や、他の戦争博物館でも幾つかの戦闘機を見ましたが、金属が輸入されていなかった事、軽量化の為か、所々に木が使われていていたりと、その技術力も中々見応えの有るものでした。

 

前半物凄い活躍をしたゼロ戦ですが欠点がありました。操縦性を重視した結果、敵にとって操縦士を狙い易い造りになってしまっていたのです。結果、優秀な操縦士を多く失う事となり、中期~末期にかけては経験値の低い若いパイロットが多くなって行き、特攻作戦という苦肉の策で戦う事になります。

 

特攻については賛否両論があります。自分は特攻をした戦闘員に対しては尊敬と感謝の気持ちのみです。そして、国の人々の為に自らの命を武器に戦った戦士たちは世界中で称賛されています。

しかしながら、未来を残す為の戦いにおいて、多くの若者を死へ向かわせる作戦は考えさせられます。我々のようなおっさんが自ら行かなくてはならないんだと。

 

特攻が決まってから過ごす三角兵舎
特攻が決まってから過ごす三角兵舎

 特攻については多くのでたらめも出ています。

無理やり行かされた。酒や薬を飲まされて訳分らなくなって行かされた等々。

 

まず、戦闘機の操縦は、レーシングカーと比べても遥かに大変なものです。普通の人では耐えられない、身動き一つとれない重力が掛かります。行きたくない人間を無理やり行かす程の飲酒で操縦が出来るものでは有りません。

そして、当時殉職率9割と言われていた航空兵は全て志願兵でした。

何十倍という倍率の予科練を受験し、訓練を受けて航空兵になった人達です。

「殉職率9割」が希望者で殺到していたのは「最も戦果が上げやすい」という理由からでした。

 

特攻は「熱望」「希望」「不希望」と、紙に書いて提出し、選出されますが、殉職率9割と知りながら入隊して来る強者の集まりですから「熱望」が多かったのは想像し易く、また、当時の戦況を考えると、「行くしかない」となったのでしょう。

 

当時の戦況は沖縄戦です。島民の4人に1人が死んだという激戦地です。特攻作戦も戦艦大和と同じく沖縄を助ける為に開始されたものです。その為九州から飛び立ちました。

戦況が悪化する中、上空にゼロ戦が見えると戦場では歓声が上がり、一気に士気が高まったそうです。米兵から逃げ惑う沖縄の人々も、「ゼロ戦が飛んで来た時は銃口は空に向くし、敵も逃げ惑う。その隙に逃げる事が出来た」と聞きました。

 

実はかなり前、飛ばせるゼロ戦が何機かあるという話を聞きました。○○の倉庫に眠っていると。いつか実際に飛ぶ姿を見れる日が来るだろうと想像をしていたので感慨深い。

 

以前堀○が道着に「零式」「神風」と刺繍をしました。そのデータが有りますので、熱望、希望の方は事務所まで。