自称世界一の親日国パラオ

 現在パラオを訪問中の天皇皇后両陛下が、激戦地で知られるペリリュー島の慰霊碑で御供花されました。

 

 自称「世界一の親日国」のパラオには、日常我々が使っている「サンキュー」等と同じ様に、有数、大変多くの日本語が日常で使われています。

何故、パラオ人が日本をそこまで好ましく思ってくれているのか。それは統治時代の日本人の接し方に有りました。

以前はドイツの植民地だったパラオ。第一次世界大戦でドイツが敗戦した事で、国際連盟より日本が押し付けられる形で統治する事になりました。スペイン、ドイツの、いわゆる植民地だったパラオは、ドイツ領時代は10分の1にまで人口が減りました。日本は全く違う統治を行い、日本統治後は人口も増えていきました。

インフラを整備し、病院や学校を作り、米作り、野菜作りを教え、瓶詰、缶詰工場を建設し、共に町を作り、上下の無い関係が築かれていました。建設、農作業は日本人、島民が共に行い、一緒に歌を歌いながらの作業でした。

 

パラオ人が最も感謝したのは植民地時代に教育施設が皆無だった(植民地に教育施設が有ると知恵者、反乱が生まれる為、植民地で教育は排除される)パラオに、新たに教育施設を建設し、日本人と全く同じ教育が受けさせてくれた事、そしてアメリカとの戦争にパラオ人を巻き込まなかった事だそうです。

パラオから東京は、サイパン、硫黄島を挟み、一直線にあります。その一本の線をアメリカは「ヒロヒト(昭和天皇)ハイウェイ」と呼んでました。東京に居る昭和天皇を撃つ為のラインです。

パラオでの日米決戦はペリリュー島で行われました。ペリリューは縦9キロ程度の小さな島で、島民は400人程度でした。島民を本島へ避難させ、日本兵士12千で約6倍のアメリカ軍と戦いました。アメリカが4日で落とせると予想していた戦いは、食糧等の補給もない状態で70日間にも及び、アメリカ史上最大の戦闘損害率を与えた戦いとなりました。

 

東京での本土決戦の為にペリリュウ、サイパン、硫黄島を攻めたアメリカ軍ですが、日本軍との戦いで受けた損害から本土決戦は避けなければならないと、硫黄島の次を沖縄決戦へ変えたそうです。

ペリリュー島決戦最後の電文「サクラサクラ」が届いたのは、開戦から73日です。サクラとは、全て散った、これから散るという意味です。

 

アメリカが制圧に来る事知ったペリリューの島民たちは会議を行いました。話し合いの結果、ペリリュー島の島民も共に闘うという事で決まり、中川州男隊長の元に訪れました。しかし中川隊長は「ふざけるな、誇り高き帝国軍人が貴様ら土人と戦えるか」と、大声で怒鳴りつけ、追い返しました。

良い関係を築けていたと思っていた島民たちは落胆し、本島へ出港する日を迎えました。そして、見送りにも来ない日本兵に悔し涙を流しながら島を離れました。

 

しかし、船が島から離れると、ジャングルから一斉に日本兵たちが現れ、笑顔で全身一杯に手を振り続けていました。その先頭真ん中には中川隊長が立ち、島民と共に唄った歌を大声で合唱していました。

 

島民たちも涙を流して別れを惜しみました。「自分達の戦いだから」と、全員本島へ避難させた日本軍人の武士道精神を心に刻み込んだそうです。

 

今でも開戦日の915日には、海の向こうのペリリュー島から「うおおぉ!!」と、日本人の鬨(とき)の声が聞こえるとパラオの人々は言います。


 パラオの国旗は水色地に黄色の正円。これは海の上で輝く月を表し、「月は太陽の光を受けて輝ける。日本が太陽で、その光を受けて輝くのがパラオ」という事です。全く同じでは失礼になるからと、中心が少しずらしたそうです。


下記は敵として戦ったアメリカ軍のミニッツ提督が残した言葉です。


この島で若き愛国的日本兵士が英雄的に戦い抜き死んでいった事を記憶に留め、国に帰り伝えよ